小児科医の書庫:索引頁
6 心身の健康 [心的健康]
TANITA 体組成計に久ぁ~しぶりに乗った!'26/4/16
45歳(暦年齢-30歳)設定
---
体重 66.9kg
BMI 22.4
筋肉量 53.0kg
内臓脂肪 9.0
基礎代謝量 1,530kcal
体内年齢 35歳 $
↓
体重 努力賞
内臓脂肪:標準だが・・・要留意!
自己評価: 及第点の測定結果◎
---
$ 体感年齢:35歳 是
自動車なら、エンジン・車軸・タイヤの動線系◎
が、塗装は剥げ・禿げ、末端部品は劣化+
= = =
幼少期は虚弱児(気管支喘息、アトピー性皮膚炎・・・)で、感染症発症も再々で学校を休むコトが多かった。小1の冬は急性糸球体性腎炎で(当時、安静を強いられていたコトで)3学期はほぼ全休。が、小4から学校を休まなくなった。理由?
職員健診を始めた当時から、腎機能は(優・良・可 の)可 水準で、生活習慣病で負荷が続くと死因の要因になり得る。智頭病院に異動後、健診項目に 尿酸 が加わった時点で、高尿酸血症が判明!10mg/dl を超えたコトもあったが、経過をみるのみにした。ビールやワインを控え、肉々しい食行動を慎んだツモリだった。
やがて、痛風発作を経験!2回は無治療で凌いだが、六甲山を歩いた後の夜間の発症には難渋!3回の発作を契機に、2022/4/20から内服治療を開始した。1錠 10円程度だが、効果は抜群🌸◎で、ビール・ワインや肉類は完全解除!食べ過ぎには留意し、ありがたく飲食し得ている。
健診の度に、高血圧徴候が持続し、降圧剤の内服も同時期から開始した。同様に。1錠 10円程度だが、現時点では血圧は正常・安全域で推移。
死因になり得る2つの病態が解除されたコトで、後は、自然災害、事故・・・。
事故に関しては、還暦を契機に JR通勤としたコトで、リスクが激減した。
(& カヤック!~万全の安全確認・担保の上での漕艇を徹底!)
~ ~ ~
智頭に異動後間もなく、町のどうだん祭りの際、病院もブースを設置。当時の機械に妻が乗り、小生も乗った。体脂肪率 18.3% と記憶。やがて、妻はTANITAの体組成計を購入!妻談「アナタが乗ると機械が故障する!」?発言。即ち、体内年齢が25歳若くなり、毎回不動!で、面白くないので、25歳若返らせた誕生日を設定し乗った。当時の機械は、-2SD までの計測・・・。
機械を更新購入したら、15歳若返り、不動!で、暦年齢を30歳若返らせて乗るコトが定着した。
その後、智頭病院に高機能(業務用)のTANITA の存在を知った。25歳若返り、不動!で、25歳偽って乗ると、同様に25歳の若返り(暦年齢-50歳)! 残念ながら、故障し、機器の更新はされていない。
~ ~ ~
近年、体が変化し、幼少期から難渋していたアトピー性皮膚炎が快癒している。かつ、評価に困惑しているが、足底が熱く、細胞くん達はI度の熱傷と誤認している。実際、前足部の発赤を見るコトもある。何故?・・・。体温は平熱。皮膚末梢の循環が良過ぎる!冬でも暖かい!
冬季に、首・肩の冷えに困惑していた。とくに、2011年晩秋から2012年初夏には、上肢の各筋肉の有痛性腫脹が多発し、難渋した。筋痛症!が、快癒している。
冬季、室内暖房で、空気が乾燥し、下着を脱ぐ際に、静電気がバリバリ!と。着衣中も(静電気がもたらす)掻痒感に苛まされ、掻破痕が絶えなかった。(現在、ほぼ快癒!着衣中の掻痒感はなく、脱衣時に静電気を感知する程度!)
当時、勿論、ローションケアは続け、掻把しないように留意し続けていたが・・・。アトピー性皮膚炎が悪化し、紅皮症となり、頸部・顔面に及ぶようになり、治療を開始も!(現在、紅皮症は無縁で、肌のザラ感も解消!)
~ ~ ~
アレルギー性鼻炎にも困惑し続けた。医学部当時、「今日は両側の鼻が通り、心地良い」と話したら、学友が「それが当然。オマエおかしい!」的な返答。自身にとっては、少なくとも常時、片側が鼻閉!交代性鼻炎▼が目立っていた!X線検査で、鼻中隔湾曲症もあり!
冬季、両側鼻閉で口呼吸となれば、ノドを痛める。掛け布団を頭に寄せ、雪の かまくら のごとくに保ち、呼気を活かして寝ることも再三再四だった。(近年、両側鼻閉は皆無!冬季でも難なく寝れている。
が、近年、両側鼻閉は皆無!冬季でも難なく寝れてている。
_/ _/ _/
▼今更・・・。交代性鼻炎(・交代性鼻閉)を検索! AI 回答
*交代性鼻炎(交代性鼻閉)は、自律神経の働きにより、左右の鼻の穴の粘膜が1〜2時間おきに交互に膨張・収縮し、鼻づまりが左右入れ替わる生理現象(ネーザルサイクル▲)
*対処法: 多くは自然に解消しますが、症状が強い場合は耳鼻咽喉科を受診し、アレルギー治療や鼻中隔弯曲症の検査を行うことが推奨されます。
▲Nasal Cycle(鼻周期):自律神経の働きにより、左右の鼻の穴の粘膜が1〜8時間(通常2〜4時間)おきに、交互に充血・膨張(詰まる)と収縮(通る)を繰り返す生理現象です。片方の鼻を休ませ、乾燥や感染から鼻粘膜を守る仕組みであり、病気ではなく正常な身体機能です。
_/ _/ _/
◆自律神経系・筋力等を鍛える長年の生活:順不同 列記
※ 風呂上がりの水シャワー:頭部から、厳寒期を含め通年 1983/7月以降継続中です。
※ 階段二段上がり:中央病院時代から(当時、6階に医局)意図的に。智頭では2005/2に新築された後、(時間外入院の際、点滴スタンドを持ち、エレベーターに乗り、急性期病棟の5階に上がっていた。が、)6-7月頃から、エレベーターに入った後、小生は階段で5階へ(急ぎ足、二段上がりで)移動:当直の際(2階の医局に居て)5階から呼ばれた際も、常時階段二段上がり!(下りは、危険を伴うので1段ずつ!)
※ 還暦を契機にJR通勤としてから実践を継続中
◎ 平衡機能訓練 ① 片足立ち・屈伸:駅のホームに立つ際など
◎ 同 ⓶(急な減速やポイント通過時の揺れには留意するが、)吊皮・手すりに頼らず立位保持(:鳥取⇔湖山:常時/混む阪急電車等然り)
◎ 関節可動域訓練&上半身筋トレ:鳥取→智頭:PC作業、読書等の区切りが着いて、4両の先頭車両・先頭で、吊皮・ドア(手摺・壁面)を活かしたサーキットトレーニング
→ 肩凝りにも難渋し続けていたが、いつの間にか困惑感が失せた!
◎ 既述の階段2段上がりは、関西等でも地下鉄の乗換時に定着:エスカレーターの片側が空けてある際は、歩いて上がります。ボチボチ止めねばネ!率先して、中央に立つか、空いている側に立つ・・・(笑)
↑ 以上は、還暦記念で始めたカヤックを安全に漕艇する上で実効的🌸◎♪
_/ _/ _/
心身の健康と題した本項・・・
幼少期は、心的虚弱児でした。父からの被虐待(身体的・倫理的)を受けており、自己肯定感・満足感に乏しい育ちでした。カミングアウトしています。▼抜粋
※ 爪切りが不要な約60年だった。物心が着いたら、爪噛みをしていた。祖母の気性が荒く、温厚な性状で婿となった祖父が爪噛みをしていた。(後年気づいたら、父の男5人兄弟の末の叔父も爪嚙みをしていた。)小生は、或いは、祖父の行動をみて、爪嚙みをしたのか、発端は知る由もない。(幸い、子どもたち3人は爪噛みなし)
_/ _/ _/
※ 幸い、勉強は出来ていた。が、今にしてみれば、おくて・奥手でした。→ 別記
※ 自身の意思でなく、何となく、鳥大医学部に入り、ヨット部とマンドリンクラブ!・・・2年目に後者を選択したのは、憧れを抱いた一年後輩の女性が入部したコト。高値の花だったが、約9か月が経過し、想定外の経緯があった。彼女の(両親容認の)思いがけない行動があり、1973年元旦に(某小学校の当直バイト中)、「マンドリンを教えて!」と来校。妙な三段論法を展開し、軸ブレせず、今(54年余)に至っている。
※ その後間もなく、高値の花の彼女と喫茶店入った。男女二人での初体験で、何もかもぎこちなかった。そんな彼女の存在・関係性が徐々に小生の心的虚弱性を癒し、勇気づけらて来た。
※ とは言え、医学部生としては、不勉強で、・・・[さらに読む]
_/ _/ _/
爪噛み AI 回答
※爪噛み(咬爪症)は、ストレス、不安、退屈、または無意識の癖として爪や周囲の皮膚を噛む行為で、子供から大人まで見られます。爪の変形、細菌感染、歯への負担などの悪影響がある・・・
※ 爪噛みの原因
ストレスや緊張: 不安や緊張を感じた時、感情を安定させようとする行動として表れます。
無意識の癖: 退屈な時や集中している時に自然に覚えてしまった行動。
愛情不足や甘え: 子供の場合、寂しさや親に構ってほしいサインであることもあります。
↓ 癖:大脳の習慣病
還暦前頃から、爪を口に入れる行動が減り、現在は爪切り!が、爪の長さは短く、変形もしており、わが劣等人生の象徴となっています。
妻・3世代家族を始め、ナチュラルな爪の人を見ると羨ましく思います。→ 後の祭り(AI :時機を逸して手遅れであり、後悔しても取り返しがつかないことを意味する慣用句)
[戻る]
_/ _/ _/
奥手 AI 回答
※成長や成熟、行動が通常より遅いことを指す言葉です。主に恋愛面で「消極的で異性との関係進展に時間がかかる人」という意味で使われる・・・
※ 主な特徴・用法
恋愛・性格面: 人見知り、シャイ、慎重、自分から動けない、消極的。
植物面: 早生(わせ)の反対で、時期が遅れて成熟する作物を指す。
関連語: 反対語は「早生(わせ)」や「積極的」。
・・・現在では精神的・肉体的な成熟が遅い人を形容する際に使われることが多いです。
===
付記:早熟・性早熟症
小学校時代M君が居た。今にしてみれば性早熟症!立派なオセの体格で、毛深かった。が、皆が二次成長期を過ぎたら、やや小柄で、目立たなくなっていた。
M君ほどではなくても、小学校時代、体格に恵まれ、スポーツほか、リーダー的存在の同級生がいた。 が、中学になり、成績が伸びず、体格的にも多くの仲間が追い付いた。彼らは早熟だった。
また、兄が居ることで、多々の知識を有し、オマセだった仲間もいた。と、気づくようになったのは大学時代か・・・。
女子の早熟(傾向)さんたちは、マドンナ的存在で、恐れ多くて、声をかけることが出来なかった。
心的な早熟君もいた。中学時代から「オレは政治家になる」と話し、大学は法文!で、地方政治家になった。
小生は奥手だった。とくに、精神面では、高校時代も進路が不定のまま・・・→ [奥手]
[戻る]
_/ _/ _/
▼・・・ 幼少時の小生は虚弱で、喘息性気管支炎~気管支喘息、乳児湿疹~アトピー性皮膚炎などで、母などに多大な負担を強いていました。
かゆみ・掻痒が強く、かつ、ゼーゼー・呼吸困難が持続し(横になると苦しいので)、母は小生を抱いたまま、皮膚も描いてくれながら夜を過ごしたことを聞かされ・おぼろげながら記憶してもいます。
保険診療のない時代、胸のレントゲン写真を撮るために、(雲州平田駅から“バタ電”こと一畑電車に乗り)わざわざ松江市まで出かけた記憶もあります。
まちがいなく、撮影した画像は、役に立たなかったはずですが・・・。
小4以降は、病欠しなくなりました。よく食べるようになったのもこの頃からですが、当時は“骨皮筋衛門”と、痩せた体型を揶揄されていました。それも肉親の叔父(親父の弟たち)から・・・。
思い出しました。小生の耳は顔の横に突き出た形状で、ゆえに“猿”のあだ名もありました。猿の物まねをすると、叔父たちは小銭をくれてました。5円・10円を、“猿真似”することで得ていたのです。小学校の低学年まで続いていたはずです。子どもながらに自嘲的な感覚を抱いたことを覚えています。母には聞いていませんが、悲しかったはずです。
当時、サーカスと併設する形で、見世物小屋があり、そう、大きなお祭りに祖父と出かけた際など、世にも稀な“オオイタチ”・・・。これはカーテンでしつらえた小屋に入ると“大きな板に(おそらくニワトリなどの)血が塗られていました。”大板血”であり、看板に偽りなしと言うことだったのでしょう。人をだまして、揶揄して、お金を稼がざるを得ない“猿智慧”でした。
近年では、映画《グレイテスト・ショーマン》をイメージします。或いは、映画《エレファント・マ》や、舞台では表現されませんが、映画の《オペラ座の怪人》でも稀有な体の方を揶揄する見世物小屋が描かれています。
小4までもそうでしたが、二つ下の弟とささいな誘因から喧嘩をすると、“喧嘩両成敗”の観点から親父に過剰と言えるほどに、感情を込めて、殴られました。平手で頬を、また、拳骨で力強く、やがて、手が痛いからと、スリッパで頬を叩かれていました。再三再四兄弟喧嘩をしたいので、親父に見つかれば再三再四叩かれ、殴られていたのです。覚えていませんが、ある時に、母が泣きながら、親父に対して「お願いだから頭は叩かないで・・・」と懇願したのを思い出します。これが契機で、スリッパで頬を叩かれるのが定着していたのかもしれません(が、経時的な詳細は忘れました)。
ある種の戦争犯罪とも思えます。軍隊に出て、父が受けていた体罰が、子どもの兄弟喧嘩の際に、怒りの感情を持って再現されていたとの理解をしています。
またまた大きく脱線しました。止めます。
~ ~ ~
幼少期の生育過程からすれば、当然とも言えますが、私事、自信のない子でした。一方で、反抗期と言える年代は勿論、今でも反抗心が強いと自認しています。反抗心の一方、青年期までは、内心はおどおどしている自分もほぼ常時認識していました。自信のなさの現れです。
自身にとって「怒りの仮面」は、自分の内面・態度を描き出していたのです。
自身の怒りの仮面は、幸い、非行・触法行為には至りませんでしたが、自虐的言動は日常茶飯事と言える状況でした。自身の至らなさを、自嘲的に失笑する態度を、医師になってからも恩師から指摘・叱責されたことを鮮やかに思い出すことが出来ます。40年以上前のことなのですが・・・。
なお、自分に自信が持て始めたのは成人期に至ってからです。幸い、恵まれて伴侶を得、心が癒されるようになりました。詳細は省きますが、感謝至極です。
= = =
付 記
父から母へのDV(Domestic Violence)もありました。心理的面でも、父が IQ的面で優れ、比較すれが劣っていた(普通水準の)母を馬鹿にする発言も再三再四でした。家族外の第三者が居る場面然りでした。常時、父の顔色をみるなど、恐怖を抱いての育ちでした。
後年、父が他界しました。意図的記述ですが、《幸い》、妻(母)に先立つ他界でした。
転じて、幼稚園~小学校時代に、大社町の母の実家に再三再四滞在していました。弟たち・従弟妹たちの支えとなっていた従姉の存在と、孫たちを良くみてくれいた祖母、家族の雰囲気に、自身の心が癒されていました。母もこのコトを承知で、送り出していたと確信しています。
父が他界して2年後位経過し・・・、母の言動が実家の大人から感じた雰囲気を、つまり、本性を出し始めました。陽気、奔放な笑い声、他人に分け隔てなく話しかけ、輪が広がる・・・で、妻は「アナタはお母さんそっくりネ!」と。
白寿の祝いをした母は、認知症が進行していますが、(父からの束縛・呪縛から解き離れた後とくに、)趣味が多彩で、継続しました。
なお、父の力が衰えた後も、小生は父に心を許したことは皆無です。(怒りの持続)
[戻る]
_/ _/ _/
奥手
※ 中学時代~高校において、進路に考えが及ばなかった。自宅は紳士服等男性用の小売りを父が始めていた。点数が取れていたコトで、平田中学校から当時の方針で、出雲高校(大学進学目的の理数科)に籍を置いた。中学時代から地図帳を見るのが好きで、(ひょっとしたら自身の空想の世界に閉じこもっていた?)いつしか知識を深めていたようで、試験で点数が取れていた。
お笑い問答「大谷は勉強している様子がないが、何故、地理の点数が取れる?!」「オマエは勉強しているのに何故、点数が取れない??」・・・
医学部を受験する際、鳥取大学は社会の選択科目に地理があった。数学・物理・化学を含め、点数を稼ぎ、嫌いな英語、苦手の国語が足かせになっていた。
_/ _/ _/
※ 英語は、残念ながら、3年間変わらず、英語教師が担任だった。小生に原因があるが、素直に会話したコトがない。英語の授業をサボるコトも・・・。努力して、何とか、60点前後だったか・・・。
国語は、作文(夏休みの宿題:読書感想文)が苦手・大嫌いで、詩・文学は無縁で、古文・漢文も嫌いだった。よって、点数が稼げなかった。
即ち、受験勉強は嫌いだった。で、鳥大医学に合格した先輩の模擬試験等の成績を見て、最低限の受験勉強に留まっていた。当然、素直でない性格ゆえ、心理的には負荷になっていた。
学生運動当時で、高卒の1969年は東大紛争のために入学試験がなかった。必然、東大をめざす偏差値さんたちは京都大医学部、京大さんたちは岡山大、岡大さんたちが偏差値が低い、鳥取大学に流れたコトは自然な成り行き・・・。で、現役で、(当時、一期校の)鳥大を落ちた!二期校は漱石の「坊ちゃん」を思い、愛媛大工学部としていた。浪人しての受験勉強を嫌ってのコト!が、釈然とせず!
_/ _/ _/
※ 結果、自宅浪人を決めた。当初、出雲高校の補習科に籍を置いたが、単なる受験勉強であり、嫌気をさしてのコトで、模擬試験当日のみ登校をした。ガンバッテ勉強し、7月模試では、現役を含め3番!東大OKの成績を得て、自身で納得した。
夏季、自宅は蒸し暑い!縁があり、大山寺の小さな宿坊[寂静院]で、高齢女性が食事等を担っておられた。田舎の避暑環境での受験勉強は、当時のブームでもあった。
が、自身にとっては、大山寺の夏は誘惑が多かった。即ち、参道を少し下れば、(今は大きな駐車場となっているが、)広い博労座があり、キャンプ・キャンプファイヤーのメッカとなっていた。幼少期からNHKの“みんなの歌”などに関心があり、かつ、フォークソング全盛時代でもあった。で、彷徨い、共に歌っていた。
_/ _/ _/
※ 宿坊[寂静院]の常連で、登山好きのOLさんが滞留され、登山に誘われた。大山登山は未体験であった身で、ならばと宝珠越えでユートピアコースでの大山縦走を体験し得た。下りは、一般的な夏山登山道。これを繰り返し、時には、5合目から元谷へと下った。
約1か月の滞留を終え、帰宅後は、大山ペースで、勉強に身が入らなかった。また、ラジオの深夜放送も流行っていた当時で、耳を傾けていると、当然、勉強の集中力を欠いた。
_/ _/ _/
※ 10月、気分転換と称し、1万円をせしめて、現役合格していた2人の下宿を訪ねた。鳥大工学部奥I君と大阪市大経済学科の伊藤T君。親は2・3日後に帰宅しようと思っていたそうだが、計1週間に及んだ。その間、連絡をするわけでなく、親は(本音はともかく)捜索願い・・・と、帰宅後に聞いた。放浪癖あり!
秋の模試で、順位が落ちた。冬が近づき、再度、エンジンを吹かすがごとく、ガンバッテ受験勉強に勤しんだ。
結果、鳥大医学部に合格した。さらに、この時点でも進路が曖昧で、二期校は福井大学工学部建築学科にも願書を出していた。
_/ _/ _/
※ 旅行好きでもあり、急行大社号で敦賀へ。福井で下車し、受験(150分の科目は120分、120分の科目は90分と決め)、部屋を出た。さらに、富山に行き、高山線で・・・と巡った。
結果、建築学科にも合格してシマッタ!!
※ 進路について、建築には憧れをいだいていたが、某大人(誰かは覚えていない)が「一級建築士に合格するのは難しい。合格しても、会社のチームに入り、蛸部屋・・・」を話し、一方、医師になると給与・身分・生活は安定・保証されると。
※ 安易な・奥手の小生ゆえに、進路選択が決定した。お粗末至極!
[戻る]
※ 医学部生としては、不勉強で、一年の留年後、医学部(米子市)に移動してからもうだつは上がらず、授業から逃避するがごとくに、部室でマンドリンを弾いていた。
転じて、1981年度から県立中央病院勤務を継続。自己評価[崖っぷちの医者]→(死に物狂いで)学会等での発表や論文執筆を重ねた。
当時、マンドリンクラブの悪舌先輩が「コリャ大谷!オマエ、米子に来れん(退学)かと心配しとったゾ!」かつ、授業をサボっていたコトで「オマエ、卒業できんかと心配しとったゾ!」さらに「(医師)国家試験に合格するか心配しとったゾ!」
オチ!「それが何だぁ~!ようけ論文書きやがって!このバカタレが!!」
毒舌・悪舌のKd先輩に感謝している。ご本人はテノールの高笑いで「・・・言ったかぁ~!」
_/ _/ _/
※ 医学部時代、ご遺体の献体による解剖実習はサボらず、丁寧に学び続けた。これ以外は、単位が取れれば 是 水準にと留まっていた。卒業試験然り。が、国家試験に向けてガンバッタ!成績も良かったハズと自認している。
とは言え、計7年間の大学在学を通じ、試験の悪夢は数十年は続いた。
不勉強ゆえに、臨床実習時も(われわれグループに対し)教官から劣等発言があった。
1977年3月医学部卒だが、前年の2月、神経小児科の臨床実習で、恩師竹下研三先生との出会いがあった。歴史等について熱く語る姿に感心し、結果、夏休みに同教室に入り込んだ。自身の染色体を(単純なギームザ染色で)400倍の顕微鏡で眺め得た。臨床力については、子どもから的確に「所見をとる」ことの重要性を学び得た。
卒後、同教室に入った。が、うだつは全く上がらず、間違いなく、教室の(今日に至るまで)最劣等生と自認している。
英語に弱い身、稀有な病態の子・・・。英語の論文には四苦八苦。初代 有馬教授の回診前や抄読会の際は、前日は病院に泊まり込みで成果の出ない勉強をしたつもりで・・・筆舌に尽くし難い、悪夢の類。11月には急性肝炎を発症!劇症化の一歩手前の数値で、その後の(死に物狂いの)研修は結果的に回避できた。
_/ _/ _/
※ 医学部卒後 2年目、鳥取県立中央病院での一般小児科研修。転機になった。性分に合っていた。
ハイリスク新生児医療は、鳥取県は遅れていた。自身が書物で学習した知見が活かされた。有難かったのは、7月から毎週1回午前中に手術室に入り、麻酔の研修に恵まれたコト!鼠径ヘルニアなど、子どもの予定手術は、小生が入る日に組まれるなど、全身麻酔のためのマスク保持などを体で覚え込んだ。
_/ _/ _/
※ 3年目、当時のローテーション通り、大学に戻った。新入生の指導医の立場が加わり、「所見をとるコトの大切さ」を教えた。間もなく、外来から「難治性てんかん」の女児が入院した。眼底が異常だった。結果、代謝性疾患の診断に至った。(結果、先輩が眼底の所見を見逃していたコトになる。)
一方、末梢神経電動速度を測る簡易な方式を見出した。当時、(有馬教授の後任・2代目の)竹下教授がわが国の第一人者で、彼の方式を改変したコトになる。軍曹的立場の医局長に実践を見せ、竹下原法と同様の結果が得られたコトで、教授の評価が下った。
下半期は、国立療養所松江病院(現 医療センター)の重症心身障害児・者病棟(2病棟80床)に異動した。この際、竹下教授は最新鋭の機器を導入し、データを取ることを命じられた。毎週、教授の回診があった。で、4年目、大学に戻る前提で、教授談「神経生理学を専門にせよ」と。
が、小生の本意は、ハイリスク新生児医療を通じて、脳障害を阻止・予防するコト!即ち、「Intact survival」をめざす医療の専門性を高めたいコトにあった。
_/ _/ _/
※ 縁があり、PL病院に異動した。激怒した教授からは破門扱い!
1980年度、大阪水準の医療と、医療圏ネットワーク(+勉強会)を学ぶべく、異動した。
1981年2月、脳小医局の(出雲高校卒の)先輩から封書が届いた。
「鳥取県立中央病院の安東先生の補佐が必要。鳥大小児科医局、かつ、脳小医局にも適任者がいない。大谷にその気があれば、鳥取に帰ってきて欲しい」と。
・・・紆余曲折があり、1981年度に鳥取県立中央病院に常勤医として赴任した。
瀬戸際・崖っぷちの医者として、懸命に働き続けた。
後年、妻談「無茶苦茶な生活だった」・・・。で、思い出したのが、「せめて夕食は家族で摂って、その後は好きにして良い」の発言。仕事の緊張感を維持したオツムでの夕食は、子どもたちにはハテ・・・。食後、病院に戻り、ハイリスク新生児医療や教授から託された研究班の仕事に専念しいた。
要するに、オツムのゆとりは無く、懸命に働いていた(追い詰められ、働かざるを得なかった)。
即ち、心的には瀬戸際の医師・崖っぷちの医者だった。
自他ともに、認められるようになるまで、5年余を要した。心的に崖っぷちからは脱したが、多種多様な職責に邁進し、仕事を続けていた。
_/ _/ _/
※ 臨床小児科医です。外面的には、子どもたち・保護者に対し、リラックスした笑顔での応対は出来ていたと自認している。一方、指導医としても、年度毎に着任する大学からの派遣医や自治医科大卒の短期研修医との関係性・指導等、勿論、看護師やコ・メディカルとの関係性然りです。
[心的健康に戻る]
[頁の冒頭]